2008年06月28日
生と死とホリスティック
もっとも身近なもの。
仕事柄もあり、そういうことに触れ考えることが多い。ホリスティック医療という分野にはこういう部分も含まれます。カールベッカー氏の講和で、共感を覚える部分もありました。

生と死。絶対真理。これから避けることは絶対に出来ない。
当たり前すぎて、このことについて考えることは一般的にはほとんど無いものと思われます。
下手すればタブー視される領域かもしれません。
生み出せば、宿る命。そして尽きる命。生と死とその違いは。。。。命。
いのちとは。。。その目的はどこにあるのか。
宿るまで、そこには存在も目的もない、ましてや個人としての意識はないと思われ。
ある時からそこには、個人の意識が出来上がる。いのちはそこから自己を意識しはじめる。
命、それは共有のものなのか、個人のものなのか。誰が為のものなのだろうか。
生と死、それは絶対真理であるにもかかわらず、倫理としてまた哲学として語られ、その答えとしてはいまだ見出されない。逆に真理とはそういうものなのかもしれないなぁ。答えになってはいけない、そういうものなのかも知れない。
生→死は普通に考えられますが、死→生とは考えにくい。
仏教では輪廻という考えがあるから、死あって生ありという考えも出来るのだけれど、そもそもの生がなくては輪廻も無い。卵が先かニワトリが先か、、、う~む。。
しかしながら、死あって生が成り立つのも事実。私たちが生きていられるのも、死があるからであって、なんとも尊く有難いことなのだと思います。
そのことが、今はとてもとても薄っぺらになってしまっています。
私たちの生そして幸の裏には必ずどこかに死があるということの認識が、また生につながっていくものと思います。それでこそ、生の重要性というものを感じられるのかもしれません。
まあ、受け売りのようになってしまいますが、そういったことが家庭の中で、話されることも少ないと思いますし、身近でなくなってきました。昔は、自分ちの野菜を食って、卵とって、鶏をこなし、そして、老人は亡くなっていきというように、身近だったんだろうなあと思います。そうして死に触れるというとおかしいですが、それによって生が喚起されていたのだと思います。ゲームのように簡単な生死はありません。そこには現実としての命はありません。
戦争も同じで、死が身近だから、生きようとするバイタリティーが生まれると、水木しげるさんも書いてみえました。うちのおじいさんも言っていましたねぇ。決して戦争擁護ではありません、あしからず。
僕が小学校くらいの頃、ザリガニを釣るために、蛙を殺して、足なんかをちぎって餌にして釣ったり、釣ったザリガニをちぎって餌にしてまた釣ったりと、残虐なことをしておりましたが、その中で、なんというむごい事をしてるんだろうという自覚と自責いうものが芽生えて、「僕らはみんな生きている」を熱唱した覚えがあります。(養老さんみたいだ ^^;)
近年自殺問題が大きくなってきました。僕自身も命を絶つことを考えたこともありましたし、実際僕の周りでもいくつか起こっている事実です。その反対に、無責任な生もまた問題になっています。
これらの問題は、今さらではありますが、やはり命というものの希薄さが生み出した現象なのかも知れません。もちろんこれらの問題は、そういったことだけではないのかもしれないですが、しかし、いまさらと思えるということは、改善に至っていないということの表れではないのだろうか。。。
三重は神につうじる国、そういった尊く有難い生と死を考える気持ちの発信地となっていきたいものですね。
仕事柄もあり、そういうことに触れ考えることが多い。ホリスティック医療という分野にはこういう部分も含まれます。カールベッカー氏の講和で、共感を覚える部分もありました。

生と死。絶対真理。これから避けることは絶対に出来ない。
当たり前すぎて、このことについて考えることは一般的にはほとんど無いものと思われます。
下手すればタブー視される領域かもしれません。
生み出せば、宿る命。そして尽きる命。生と死とその違いは。。。。命。
いのちとは。。。その目的はどこにあるのか。
宿るまで、そこには存在も目的もない、ましてや個人としての意識はないと思われ。
ある時からそこには、個人の意識が出来上がる。いのちはそこから自己を意識しはじめる。
命、それは共有のものなのか、個人のものなのか。誰が為のものなのだろうか。
生と死、それは絶対真理であるにもかかわらず、倫理としてまた哲学として語られ、その答えとしてはいまだ見出されない。逆に真理とはそういうものなのかもしれないなぁ。答えになってはいけない、そういうものなのかも知れない。
生→死は普通に考えられますが、死→生とは考えにくい。
仏教では輪廻という考えがあるから、死あって生ありという考えも出来るのだけれど、そもそもの生がなくては輪廻も無い。卵が先かニワトリが先か、、、う~む。。
しかしながら、死あって生が成り立つのも事実。私たちが生きていられるのも、死があるからであって、なんとも尊く有難いことなのだと思います。
そのことが、今はとてもとても薄っぺらになってしまっています。
私たちの生そして幸の裏には必ずどこかに死があるということの認識が、また生につながっていくものと思います。それでこそ、生の重要性というものを感じられるのかもしれません。
まあ、受け売りのようになってしまいますが、そういったことが家庭の中で、話されることも少ないと思いますし、身近でなくなってきました。昔は、自分ちの野菜を食って、卵とって、鶏をこなし、そして、老人は亡くなっていきというように、身近だったんだろうなあと思います。そうして死に触れるというとおかしいですが、それによって生が喚起されていたのだと思います。ゲームのように簡単な生死はありません。そこには現実としての命はありません。
戦争も同じで、死が身近だから、生きようとするバイタリティーが生まれると、水木しげるさんも書いてみえました。うちのおじいさんも言っていましたねぇ。決して戦争擁護ではありません、あしからず。
僕が小学校くらいの頃、ザリガニを釣るために、蛙を殺して、足なんかをちぎって餌にして釣ったり、釣ったザリガニをちぎって餌にしてまた釣ったりと、残虐なことをしておりましたが、その中で、なんというむごい事をしてるんだろうという自覚と自責いうものが芽生えて、「僕らはみんな生きている」を熱唱した覚えがあります。(養老さんみたいだ ^^;)
近年自殺問題が大きくなってきました。僕自身も命を絶つことを考えたこともありましたし、実際僕の周りでもいくつか起こっている事実です。その反対に、無責任な生もまた問題になっています。
これらの問題は、今さらではありますが、やはり命というものの希薄さが生み出した現象なのかも知れません。もちろんこれらの問題は、そういったことだけではないのかもしれないですが、しかし、いまさらと思えるということは、改善に至っていないということの表れではないのだろうか。。。
三重は神につうじる国、そういった尊く有難い生と死を考える気持ちの発信地となっていきたいものですね。
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この記事へのコメント
生と死最近良く考えるテーマの一つです。義父を引き取って最期まで我が家で看取ることで大変だけれども子どもに死を意識させて生きる大切さを学びことが出来るんじゃないかと・・・。
先日「西の魔女が死んだ」と言う映画も見ました。必ず来る避けては通れない物ならば受けて立ちましょう!そんな気持ちです。
先日「西の魔女が死んだ」と言う映画も見ました。必ず来る避けては通れない物ならば受けて立ちましょう!そんな気持ちです。
Posted by まみむめモー子 at 2008年06月28日 18:22